美術館にて
先日三菱一号館美術館に行ってきた。
レオナルド×ミケランジェロ展を見るためにだ。
今回は素描がメインに展示されているのだが、素描だからこそ芸術の教養が一切ない私にも素晴らしさがダイレクトに伝わった。
紙の上には人物が存在して、それは二次元だと理解できなかった。
両者の作品を見ていくにつれて私は両者の性格の違いを感じだした。
ミケランジェロの素描の方が、美しく感じ、ダヴィンチの素描にはある種の違和感を感じだのだ。
ダヴィンチの素描に違和感を感じるなんて、芸術の感性はおろか教養すらない私だから、価値がわからないのだろうと。
美術館に来たことを恥ずかしく思い始めたちょうど矢先に、ダヴィンチが美しく見える比率を研究している素描をみた。
ふと振り返ると、ミケランジェロの素描は、全てが全て美しいのだ。
そう、違和感を感じるならばダヴィンチではなくミケランジェロに感じるべきだったのだ。それほどに整った顔の人物ばかりのはずがないと。
ダヴィンチはありのままの姿を紙の上に作り上げる技術を習得したのち、それが必ずしも美しく、自分の中の正解ではないことに気づいたのであろう。
だから、美しさ、を研究したのであろう。
自分の目にはどこが明るく見え、どこが暗く見えるのか、それをどの濃淡で描くと目に見えているのと同じように立体的に見えるのか。そして、物体を紙の上で表現できるようになった先には、美しいと感じるためには、どのバランスで描くのが最適なのか…
私には、彼は芸術に答えを求めているように思えた。
それに対しミケランジェロは、彼の感じた人物を紙の上に表現したのであろう。
彼にとって、絵はあくまでも自分の感覚を表現する方法の一つであって、ありのままの姿を紙の上に作り上げる技術は最初から求めていなかったのだ。
この当時、彫刻と絵画、どちらが優れているかという討論が流行ったらしい。
その討論に対してダヴィンチは絵画を擁護し、ミケランジェロはどちらも一緒だと言ったらしい。
ここでもダヴィンチはいかに物体を紙の上で立体的に見せる技術が優れているか。つまり三次元を二次元に転換することができるから絵画の方が卓越した技術が必要で、優れていると発言した。
そして、ミケランジェロは、自分の感覚を表現するのに変わりはないのだからどっちでも一緒だろう。とでもいったのだろう。
また、ミケランジェロは肖像画を嫌ったらしい。ここまで来たら、そりゃそうですよねと言いたくなった。あるがままをかくのは、ミケランジェロにとってつまらないに決まっている。
感性を磨き、表現する方法を磨くミケランジェロに対して、芸術に答えを出そうと、つまりマニュアルでも作ろうとするダヴィンチ。
私はダヴィンチに少しづつ惹かれていった。
彼は、全ての事を理解したかったのだろう。なぜ、陰影をつけると立体的に見えて、なぜ、美しくは見えなくて、なぜ、なぜ、なぜ…
全ての事を理解したかった、という側面に、全ての事に疑問を抱いていたように私には思えた。そして、全ての事に理由を求めたのであろう。
その探求心が、絵画だけではなく様々な分野の研究に一石を投じたことは周知の事実ではあるが、私はダヴィンチの人間関係がとても気になった。
彼は、感情を理解できなかったはずだ。
そう、感情は理解ではなく、本来感じるものなのだ。だか、彼は感情にも疑問を抱き、理由がほしかったのだ。そして答えが欲しかったのだ。ただただ答えを求めた。答えを求める事のみが自分の存在価値を認識でき、つまり楽しく、そのための研究も楽しめたのだろう。だから結果多くの功績を後の世に残した。だが、彼には研究しかなかったのだ。研究を進め答えを導ける時が唯一、理解できる、つまり安堵できる時間なのだ。
彼には友達がいただろうか。私は、いないはずだと確信している。
笑ながら食事をする相手、友達と呼ばれる人達はいただろう。だけど彼は、その食事中ですら孤独感から逃げることはできなかったはずだ。彼は、だれからも理解されない、誰も理解してあげれない、という一人ぼっちの世界を生きていたのだ。
周囲が笑っているから笑い、周囲が好きそうな話題を提供し、そして時間をつぶしていたのだろう。同じ話題で楽しいと思うことも、悲しいと思うこともなかったに違いない。
同性、異性関わらず、人を好きになるという感覚にはとても苦心しただろう。
好きになる、また、相手が自分の事を好きであることを理解する、理由がいるのだ。理由が存在しない感情が、彼には存在しないのだ。
最後の方に、彼の素描でない作品をみた。
以前にも何度か、彼の作品は見たことがある。そして常々、冷たい、無機質な不気味さを感じていたのだ。
見ていると絵画の中に吸い込まれそうになる、完璧な立体感と、想像を膨らませることすら許さない、再現力。キャンパスに、彼の中の芸術の答えをぶつけていたのだろう。
「私の芸術を真に理解できるのは数学者だけである」
考えることに捕らわれた天才は、孤独と引き換えに芸術までも理解したのだ。